第3回 私の医師人生のはじまりと今
●医師国家試験の合格発表日は確か「4月末」でした。免許証が届くまでは郵送された官製はがきの裏の「医籍登録書」が唯一の証明書類で、国家試験合格をもって、「1998年5月1日付」で、小牧市民病院救命救急センター医師(就職)=小牧市職員となりました。
(なお、医師免許証は申請から半年後に届き、省庁再編前(=大蔵省や文部省・運輸省の時代)のため 厚生大臣 小泉純純一郎 と大臣署名と大臣印があり、個人の顔写真はなく「厚生省」と透かし入りの「B4大」のまるで賞状のような免許証でとても携帯は無理です…)
●当時、尊敬申し上げる余語弘院長から言われたことは、今でもはっきりと覚えており、現在も「私の基本姿勢」となっています。
1:「医師免許をもったからいってお前らは社会人の底辺、自分が偉いと絶対思うな! だから、朝から病院内を掃除して下さる方々にはお前らから先に挨拶するのが至極当然、実行しろ!」
2:「一日でも早く一人前の医者になれ! 今日から医者として働け! そして貪欲に学びどんどん技術を磨け!」
3:「教えてもらえるなど思っていたら大間違い!」、「技術は見て盗んで知識・思考力は自分で身に着けろ!」、「もしお前らが誤診しても責任は私がとる、だから馬車馬のようにとにかく現場で場数を踏んで学べ!」という内容です。
●私たちの時代、医学部では実務(=縫合や採血など)学ぶ機会は全くなく、「縫う」という行為の基本の基本すらトレーニング歴なしで何も知らない…信じられないと思いますが「事実」です。ですが、就職当日からいきなり救命救急医として激務が始まり、就職して1週間後には脳の表面に血が貯まって脳が圧迫されて動けなくなった患者さんの執刀医は私で、麻酔を施し穿頭用ドリルで頭蓋骨に穴をあけて血種を取り除く手術を実施しました。
昔は救急医療に熱心な病院は極めて数少なく、今と異なり、理由をつけて救急搬送を断る病院ばかり。しかし、院長から「絶対に救急車は受け入れを断るな! うちが断ったら患者は死ぬ」と強く言われた以上、ホットラインがあっても断れません。
救急車は一晩で20台を超え重症者ばかり、センターの外来にやってくる患者さんも一晩で100人越え。これをほぼ2名の医師で診るという状況。
もちろん、赤ちゃんの熱の診察からご高齢者の心不全を診つつ、心肺停止状態の患者さんが同時に3人搬送されてくるのは日常茶飯事。フットワーク軽く動いて何としても命を救いたい想い。なぜなら、自分には「命がある」訳ですから。もちろん、仮眠したいなど甘えた思いはそこにはありません。
朝から通常勤務をした後→そのまま救命救急センターに残って当直に入り朝を迎え→当直が終わったらそのまま外来診療や手術の執刀・集中治療センターの管理に追われる毎日。確か、当直(午後5時から翌朝9時まで16時間)で働いても当直手当は1万円(時給にすると630円程=当時の高校生アルバイトと同等以下?)。これが当たり前でしたので何とも感じませんでした。
それ以上に、当直でなくとも夜は帰らず(もちろん無償で)手術や処置を行い研鑽に励むことに意味がありました。
先輩外科医の技術を横目で盗みながら、書籍・論文を読み漁って「実践」を通じて、まさに自分の成長がまともに実感できることへの有難さを感じていました。
●今では、救急を受け入れないと研修医に選ばれる「臨床研修指定病院」になれないため、救急医療を行う病院が増加し、かつてのように「名古屋市港区で心肺停止」になった方が名古屋市内すべての病院で受け入れを断られ、「小牧」まで搬送されることはないと思いますが、当時はそれが救急医療の実態でした。
さらに、「患者さんやご家族へのご説明」に関しても、院長より「お前らは難しい医学用語をいかにかみ砕いて誰にでも分かりやすく説明することができるか、それも医者としての腕であり当然の能力だ!」と言われ、これを素直に納得でき、その実践を重ねることに何の違和感もありませんでした。
●私たちの世代の医師は、「医者になる前(卒業前)から何科の医師になるのか決めておく」のが常識。つまり、専門にする「科」を決め出身大学か他の大学病院の「医局」(例えば、第一外科医局、整形外科医局など)に入る(=入局)ことが当然でした。
私は僻地医療をするためには、「科」にとらわれない医師になるべきという傍若無人の信念で、指導教授からは「医局に入らない医者などあり得ない」と何度もお叱りを受けましたが、意志を変えられず「医局」の道を知らない医者として生きてきました。
なので、私たち世代の医者は持っていて当たり前の「医学博士号」は未取得です。
また、「専門医」資格にも興味はありません。なぜなら、日本の専門医制度自体に極めて疑問を感じるためです(=ここでは詳細を割愛します)。いくつかの専門医資格は病院の都合で取得しなければなりませんでしたが、今は「学会」と名の付くものから全て退会し、退会と同時に各種の「専門医」や「指導医」資格は失効したので、気持ちが「非常にすっきり」しました。
ですから、私は医局無所属かつ「医師免許証」以外に何も名乗る資格がなく、「医者(医療)の中での社会的信用度」はかなり低く、また、周囲の医療関係者の方々からそう思われていても全く構いません。要は医者として自分は何ができるのか、それこそが医師としての価値基準と私は思っています。
●紆余曲折を経て、岐阜・大垣の地に来て20年以上。
勤務医としていろいろ経験させていただきながら、若い時に受けた教育や習性は変わりようもなく、自己成長こそ全てと思っています。
医師になり10年を過ぎ、いざ医師を育てる立場になると、「私の価値観」を医師になりたての「研修医」に教え伝えることはすでに許されない時代・制度に変わっていました。今は「医師の働き方改革」も叫ばれるご時世…。
●以前は医者が「有給」を取得することなどあり得ない風潮であり、自ら有給の必要性を感じることはなく、馬車馬のようにひたすらに走り続けていましたが、とうとうそれは不可能な社会になってしまいました。
「白い巨塔」世代の最後の医師でありながら、その世界(=大学医局)とは無縁な「変な医者」。他の医師からそう思われて久しいですから、慣れてしまいそれが私です。
医者同士が初めて会う際の挨拶では、①(大学院卒であっても)「出身医学部名と卒業年次」、②所属する医局、③専門の科をお互い言うことが慣習であるため、少し前まで、①は言えても、②③が言えず、③は住民課と言ったこともありました→やっと総合診療科という概念が醸成されつつあり、今では、③=「救命集中治療科」と「総合診療科」と答えられます。
●「ひとりの医者として何が出来るのか」、老若男女問わずどのような方でも診て察し、即行動する。これが本当の医者ではないかと、私は確信しています。
今回は「私自身の医師人生」について、医者のひよこ時代からお話ししました。
●まだまだ若いと思っていたら50を過ぎ、「医師として、ひとりの人間として何をなすべきか」=つまり自分の「天命」とは何か。天命に従って生きることができることに感謝を忘れてはならないと思います(私の天命につきましては、別の機会に申し上げたいと存じます)。
お読みいただきありがとうございました。
下書きなくそのまま記載してアップいたしましたので拙い文章で読みにくく、大変すみません。
註:私は本文で具体的病院名を挙げましたが、①非難する意図は何らなく、②就職させていただいたこと、そして、働かせていただいたことに対し「この上ない感謝」の念を持っておりますことをまさに表明いたします。(同病院においても、働き方改革が実施されております)