第2回 徳島での生活 ~「今」とは違う医学生~
第2回 徳島での生活
~「今」とは違う医学生~
●名古屋から徳島へ
明石海峡大橋はまだなく(註:卒業した翌月に開通し大阪市内→徳島市まで淡路島経由で高速道路化)、私が名古屋から徳島に行く手段は、名古屋駅から近鉄特急(アーバンライナー:安い!)に乗り難波まで向かい、南海電鉄に乗り換え、和歌山まで移動→高速船→徳島市沖洲→市営バス→徳島駅でした。ちなみに、当時の徳島駅は、現在のような駅ビル化+近代化状態ではなく、「木造平屋建て」であったことは記憶に残っています。受験の際も雨風強いといかなる手段でも四国に到着不能になるので、受験の際は前々日に「徳島入り」していました。
徳島駅前
眉山から見た徳島市(橋のかかる河川は吉野川)
●大学に入学して最初のころ…私が入学したのは1992年4月。全国一律に国・公立学校の「土曜日半日授業が廃止」された年でした。家庭的に決して豊かではなかったことは第1回の通りです。学費についてはいろいろ手段はあり、実は大学6年間、一度も学費を納入したことがありません。
しかし、家賃・生活費は「稼ぐ」しかありません。大学学務課には家庭教師案件が多くありましたが、結局、車がなければ移動もままならない土地柄で、「長時間働けて平日夜・土日祝も勤務できる塾講師」で生計を立てようと思い、卒業まで月13万円超えの収入は維持。
下宿先は築30年以上の木造2階建・風呂なくシャワーで共用・トイレや洗濯機も共用・今はなきダイヤル式の10円玉式ピンク電話も共同で、電気コンセント付・水道・プロパンガス有の総面積4.5畳、家賃1万円/月。時代が時代ですので、未成年でも不動産契約はひとりで可能で、連帯保証人は父の氏名を私が書いて印は同一で成立。冷暖房などなしは当たり前。
移動手段に格安自転車を手に入れ、1年生1学期はとにかく生活費と貯蓄が必要で、遅ればせながら、夏にやっと「運転免許」を取得し、軽自動車(オートマ車は高額なのでマニュアル中古商用車)を手に入れ、行動範囲が一気に拡大。大垣市も同様ですが、徳島市も車がないと生活に窮します。(また、車種問わず、車があると何とデートに誘える身分に変身するのでした!)
大学構内
●あれ、医学部生じゃないの?
私の時代、医学部に合格しても、2年間は「教養部」学生であり、医学に触れず、他学部の方とひたすら教養科目の履修。学生証も教養部所属と明記。体育もドイツ語も2年間ありました。出席はとらないので、「法学・哲学」は授業が興味深く出席しましたが、他は何を受講したのかすら覚えておらず、過去問解いて合格。
●やっと医学部に入学!? ~基礎医学編~
ようやく、大学3年生になり、「医学部に入学」。医学部1・2年生(大学3・4年生)は基礎医学。基礎医学には、解剖学、生理学、生化学、衛生学、公衆衛生学、法医学、薬理学等々おびただしい科目有。小学生のような時間割が配付され、すべて必修科目で1つでも落とすと留年、これが医学部独特。各々の科目の中間や期末テストは例外なく論述問題。基礎医学では、全ての学科で「座学」のあとは「実習」必須。「座学」は出席をとる授業がめずらしく「試験だけ」はうまくパス。辛いのは、座学のあとの実習。特に最初の1年間は「午後全て人体解剖実習」。有毒なホルマリンの蒸気をまともに1年間浴び吸い続けながら、ご遺体の手足の皮から解剖開始。腹部を開けるまで4カ月。解剖中に何度も行われる重箱の隅をつつくような試験は日本語不可でラテン語。そして、毎回、解剖を終えたら臓器などを元に戻して班ごとに「合掌」(ご遺体に深く御礼)。ホルマリンの匂いは非常に染み込み、家に帰ると急いで玄関で全ての衣服を脱ぎ洗濯槽へ入れ、即刻シャワー。しかし、ホルマリン臭は抜けず、その間は塾の生徒に非常に嫌がられました(現在はホルマリン使用禁止で無臭に近い防腐剤になっています)。
医学部(基礎医学研究棟)
● ~臨床医学編~ と医師国家試験のジレンマ
第一内科、第二外科、産科婦人科、小児科、麻酔科等々…の臨床医学を学びだすのは医学部3年生から(=大学5年生)。
ようやくいろいろな病気や診断・治療を習う訳ですが、初学生向きではなく「各教授や助教授の研究内容」の紹介ばかりで、講義での話し方は棒読み。
私は愕然とし、「授業」そのものに意味を見出せず、幸い出席はほとんどとらないため出席した講義は極わずか。
ならば自学自習です。しかし、基礎医学同様に「試験だけは山」のように課され、教官の研究分野からの出題ですべて論述式。
講義には出席せず、欠かさず試験だけはきちんと受けていました。
最終学年(医学部4年生=大学6年生)の6月から病院実習が開始。
カルテは英語かドイツ語記載が必須で日本語記載不可⇒患者さんに読めないようにカルテは書くことが求められた訳です。
臨床35科目を1週間ずつ班でくるくる回るものの、結局、縫い方も採血や処置の仕方も教えられずに9月末で終了。
10月からは「恐ろしい卒業試験」の数々。
医学部では卒業論文はなく、卒業試験があります。
卒業試験は、臨床35科目が対象で、1科目でも落としたら卒業できず。
試験は2~3日に1科目ずつ行われ、それが続き35科目で終了。
また、国家試験とは無縁の「教授研究から出題で論述式」。
医師国家試験の勉強をしながら、(意味のない)論文丸暗記の日々(タバコの本数が一気に増えた時期でした…)。
当時、「最高学府たる大学が国家試験など意識するなど言語道断」の時代で、大学側の国家試験対策にはまるでなし(これらが今と大きく違う点)。無事すべて合格すると卒業できるものの、医師国家試験は3月下旬で合格発表は4月下旬でその間、無資格・無収入。
試験は合格したものの、医師免許取得の手続きに「免許登録税 60,000円(収入印紙)」が必要なことには驚愕!(お金がない!)してしまいました。
徳島大学病院(外来棟)
●卒業したら…
私たちは「白い巨塔」の末裔で、卒業する前に自分の専門科目を決めて「大学医局」に所属するのが超常識。医局では、即、専門医教育が始まります。
しかし、私は僻地医療が夢で医学部へ入学。その想いは変わらず、その時代、地元で救急医療が最も忙しいと言われた「小牧市民病院救命救急センター」へ5月に就職。
当時からかなり異端であったようです(就職に至るまでが大変で、何度も指導教授に呼び出され「とにかく言うこと聞いて後藤は医局に入れ!!!」と怒られ・諭された記憶は生々しく残存)。余談:卒業席次:1(中学校時代の挽回達成)
*①私自身につきご理解いただくため、また、②まだまだ先の後段に続くさまざまな投稿に込めることとなる「想い」をお伝えする上で、「あえて包み隠さず公開」しておりますことをご了解下さい。
●以前から「緑・赤色」発光ダイオードはありました。しかし、色の三原色である「青」だけが開発不能でした。 他の研究者とは全く異なる手法で「ひとり」で発明に至った高照度青色LEDを通じ、何色でも再現可能なLED照明が21世紀前に商品化されました。その方は工学部電気電子工学科卒業生の中村修二氏であり、その後も、様々な発明を行い今もご活躍中です(2014年ノーベル物理学賞)。
国立大学法人徳島大学紹介2024版↓
https://youtu.be/8lHDehU15I0
徳島大学医学部紹介2024版↓