第7回 理想と現実の隔たり
理想と現実の隔たり ~実社会に生きる私たちが考えるべきこと~
2000年代に入り、もともと日本人が持っていた価値観に大きな変化が生じていると痛感します。
その大きな要因として、ネット社会が日常生活に深く浸透し、「情報化社会」がますます進む中で、分からないことがあれば誰でもその場で簡単に情報を得ることが可能な時代となり、最近では汎用的AI(人工知能)の発達が予想以上の速さで進んでいることが挙げられます。
便利な面ばかりが強調され、さらには世界的潮流の中で、Dx(デジタルトランスフォーメンション)をはじめデジタル化自体が「当たり前として普及すべきこと」として後押しされています。
もはや避けられない時代の流れではありますが、そこには「大きな落とし穴」が存在するという恐ろしさに対し、警鐘を発すること自体、これを封じ込もうとする社会的風潮があることは認識しており、否定しません。
「落とし穴」とは、ネット社会(そこにはSNSも当然含まれますが)の台頭と情報化社会の浸透(から生じる情報の渦)の中で、人間が元来持つ「考える力」が急速に失われるという悲劇(危惧)です。
誰でも簡単に自分が求める情報が手に入れば、例えばスマホで検索すればピンポイントで目的までたどり着くことができるのなら、それは一見「極めて便利」です。
一方、その裏で、一歩立ち止まって真偽を見極め、自ら咀嚼し思考することへの意識が薄らぎ、批判的吟味力の低下やその欠落を生みやすい土壌にあるという危険です。
同時に、理想が先走りする中で現実を見失うという恐怖です。
「こうあるべき」、あるいは、「そうでなければならない」という「机上での正論を現実に求める」という流れと換言した方がより近いかも知れません。
社会の中で、そのような「理想」を語ることは当然ながら自由であるべきです。
私が強く疑問に考えることは、「理想」を実社会に求めるという反転事象です。
自分の権利は守られるべき、権利は主張すべき、理想と現実が異なるのであれば正すべきという、自己の正当さこそ正義という価値観から生じた社会の歪みがすでにあるのではないかと私は思ってなりません。
「学校教育における保護者からの過剰要求」などに象徴される権利意識の横行など、挙げるならばきりがない程に溢れる時勢を鑑みれば、「歪み」は一目瞭然です。
「おたがいさま」という言葉には、相互に事情を察し、その根底には「他者への思いやり」があると考えます。
長い年月をかけて培われてきたそのような「こころの根」は崩れ去ろうとしており、効率化・省力化・正当性など「表面上の綺麗さ」を求める中で、傷付くひとがいるという悲しい現実から目を背ける訳には行きません。
過去が正しいとかそのような視点ではなく、「いま」に行き着いた歴史は変える訳にはいかないという中で、立ち止まりこのままで良いのか振り返えることが肝要ではないかと強く思います。
反論が多数あると覚悟した上で述べた訳ですが、つまるところ、(自己主張のみではない) 他者との関わりの中での見識で「いまの社会を見つめなおす」というこころの変革に期待と希望を持ちたいと感じます。
令和7年12月8日
後藤 貴吉